射水市、砺波市、小矢部市、南砺市の親鸞会で『正信偈』を学ぶ

親鸞会 家庭での勤行帰命無量寿如来
(きみょうむりょうじゅにょらい)
南無不可思議光
(なむふかしぎこう)

で始まる有名な『正信偈』は、「何とか伝えたい。知ってもらいたいことがある」と、親鸞聖人が一字一涙の思いで書き残されたものです。

漢字ばかりで書かれてありますので、『正信偈』を「お経」だと思っている人がありますが、 『正信偈』はお経ではありません。 「お経」は、お釈迦さまのご説法を、弟子が書き残したものです。『正信偈』は、親鸞聖人の書かれたものですから、お経とは異なります。

では『正信偈』には、何が書かれているのでしょうか。親鸞聖人が私たちに、何としても知ってもらいたいこと、とは何だったのか、少し解説をしましょう。

『正信偈』とは、正しい信心の偈(うた)

親鸞会 浄楽の滝「信心」と聞くと、自分とは関係のないことだと思われる人もあるでしょう。しかし、私たちは何かを信じなければ一日たりとも生きてはいけません。

例えば、明日も生きていられると、命を信じて生きています。いつまでも元気でいられると、健康を信じています。夫は妻を、妻は夫を信じ、子供は親を、親は子供を信じて生きております。

「不幸のすべては金で解決できる」という金の信心もあれば、名誉や地位の信心もあります。才能や学歴を自負したり、資格を当てにする人もいます。共産主義者は、共産社会こそ理想と「信じて」いる人たちです。

このように、神や仏を信ずるだけが、信心ではありません。「オレは何も信じない」「だれも信用していない」という人も、そのような「信念」で生きている人なのです。

"イワシの頭も信心から"といわれるように、何かを信じておれば、それはその人の信心です。何を命として信ずるかは一人一人異なるでしょうが、すべての人は何かの信心を持って生きています。

「生きる」ということは、イコール「信ずる」ことだ、ということです。

苦しみ、悩み、怒り、悲しみの原因は

ところが私たちは、信じていたものに裏切られた時に、苦しみ悩みます。

失恋の苦しみは、恋人に裏切られたからです。子供に老人ホームに入れられ、「一度も会いに来てくれない」と泣くのは、命と信じて育てた子供に裏切られたからでしょう。

「うまい儲け話なんかあるものか」と警戒していたはずなのに、きれいなパンフレットを見せられ言葉巧みに説得されると、もとより人間は儲けたい欲いっぱい、「この人なら大丈夫」「チャンスだ」と思ってしまうのでしょう。「だまされた!」と気がついた時は後の祭り、やり場のない怒りや後悔も、信じていたものに裏切られた結果です。

親鸞会 浄楽の池病気になると、健康に裏切られたことで苦しみます。肉体的苦痛もひどいですが、検査で「ガンの疑いがある」と医者から言われただけでも、足元が崩れるようなショックを受けるといわれます。「まさか、節制しているオレが」の健康信心、「いつまでも生きていられる」という命の信心は、自覚はなくても、実に深く強いものなのです。

しかも深く信じていればいるほど、それらに裏切られた時の悲しみや怒りは大きくなります。

私たちは決して苦しんだり悲しんだりするために生まれてきたのではありません。生きているのでもありません。幸福を求めて生きているのです。

では、裏切らないものを信じて、私たちは生きているでしょうか。

たとえ70年、80年信じられるものがあったとしても、私たちは最後、死なねばなりません。いよいよ死んでいかねばならない時には、信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ、最も大事なこの肉体さえも焼いていかなければなりません。

やがて必ず裏切るものを信じて生きているから、苦しみ悩みが絶えないのだ、本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない正しい信心を持ちなさいよと、親鸞聖人は教えられているのです。

「正しい信心」は、たった一つ

『正信偈』の「正」という字は、「一に止まる」と書きます。正しいものは一つしかないということです。二つ三つもあるものではありません。

そのただ一つの正しい信心を、親鸞聖人が明らかになされたのが、『正信偈』です。

皆さん、一日も早く「正しい信心」「真実の信心」を獲得して、死の巌頭にも崩れない「絶対の幸福」に救い摂られてくれよ、と念じ、叫び続けていかれた方が親鸞聖人なのです。

冒頭の、

「帰命無量寿如来
 南無不可思議光」

の二行は、親鸞聖人ご自身が、その「正しい信心」を獲得された生々しい感動、喜びを告白されたお言葉なのです。

親鸞会では、その『正信偈』について、法話や勉強会を通じて話をしております。どなたでもご参加になれますので、以下のリンクから詳細をごらんください。

>> 親鸞会の『正信偈』勉強会についてお知りになりたい方は、今すぐこちらへ